2007年9月16日 (日)

価値の発見者

人が生まれてくるということは

その事だけでも 新しいものがこの世にもたらされたことになります。

本質的に生まれるということは新しい事をもたらすという事です。

 

しかし、人間はどうも批判をしたがる。

あそこが悪い、ここがだめ、という。

無論それも必要な事ではあるでしょうが

私は、悪いことを見つけるよりも価値ある事を見つけたい。

 

価値は、ダイヤモンドや金の様に

見つけて磨いてやって初めて光ると思うのです。

無論、創造する事も「価値の発見」に含まれている概念

という前提での表現です。

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2006年6月20日 (火)

原理原則

私は、原理や原則に大変興味があります。

事象の裏側とでもいいましょうか。
物事がナゼそうなるのかに興味がある。

ただ、原理原則は、見えてくるまでに時間がかかります。
その上で、人がその原理原則を使えるようになるにはまた相当な時間がかかる。

原理原則は、長期スパンで考えると必ず人間の役に立つ。
けれども、短期的には「何の役にも立たない」そういう事が多い。
アインシュタインの相対性原理はその典型と言ってもいいかもしれない。

原理原則は、「哲学」と言い換えてもかまわない。
ムロン、哲学は原理原則だけで成り立っている訳ではありませんが。

お金を儲け、楽な生活をするためには
この「原理原則」志向はジャマになることが多いようにも思います。
それでもヤハリ「原理原則」の追求は止めることができない。
それは私という存在のコアです。
マズローの欲求5段階説でいうところの、「自己実現の欲求」が
私の場合には「原理原則の探求」なのです。

でも、時にはこうやって再確認して公表しないと
クジケソウ になったりもするわけです。

てなワケで、久しぶりに記事をアップ。

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2006年1月29日 (日)

しまんとグリーンライン(2)

「しまんとグリーンライン」の記事の続きです。写真と短いコメントで構成しています。

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線路沿いの道を自転車でいく女性。もんぺ姿でした。農作業に行くところ?でしょうか。のどかな感じです。まあこれは私の勝手な思い入れでしょうけれど。

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壊れたままの沈下橋。奥に見える橋があるので補修の必要がないのでしょうけれど、何かしら寂しい思いにかられます。

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1両の列車分しか長さのない無人ホーム。ホームへの階段といい簡素なものです。でも不思議に良い佇まい(たたずまい)だと思うのは私だけでしょうか。

ところで、
列車では最後尾の窓から流れゆく景色を見続けていたのですが、駅に止まった時に線路を見ていると線路が近づいてくる(つまり列車が後進している)ような感覚に襲われました。ちょっとばかりクラクラするような感覚ですがみなさんも経験はありますか?

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こちらは15両分くらいはありそうなホーム。良く眼をこらして見てください。写真のずっと奥までホームです。民家は上の写真のホームの近辺よりは多いのですが、15両分もの利用者があるようには見えませんでした。ただ、こういうホームを見ると列車が交通の一大動脈だった時代に思いが至ります。

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先ほどのホームを発車したところです。引き込み線もあるので貨物(何?)の集積拠点だったのかもしれません。

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沿線の小さな面積でもムダにせず耕作されています。日本人の勤勉さ、先祖の努力にあらためて感じいります。沿線には棚田もおおく、先人の地道な努力が今日の日本を作ったのだと実感します。しかし、一方で耕作放棄されているような畑もありました。日本人にとって使えるモノは余さず使おうとする「もったいない」精神は貴重な文化遺産ですが、最近はなおざりにされています。

ノーベル平和賞を受賞した、南アフリカのマーテイさんが日本には素晴らしい言葉がある。それは「モッタイナイ」という言葉だと言っていました。日本は鎖国していたがゆえに狭い国土・限られた資源を余り無く利用しようとする文化が発展しました。世界的にみると、人口の増大により、地球全体が鎖国日本と同じ状況に置かれる日も遠くないでしょう。そう考えてみると、実は日本の文化は世界に冠たる先進文化というべきではないでしょうか。

日本の産物は「メイド・イン・ジャパン」として世界的な評価を得ていますが、文化についてはそのイメージが「フジヤマ・ハラキリ・芸者」の時代から「アニメ」「マンガ」に変容してきているとは言え、実は他にもっともっと発信すべきものがあります。

「グローバル化」の時代と言われますが、これは世界規模で寡占が進むという構造を含んでいます。つまり、グローバル化を進めて標準化・効率化の恩恵を受ける一部の支配者層、標準化され「その他大勢」の価値しか認められず、効率化の名の下に切捨てられがちな大勢の被支配者層を生むのです。

それを防ぐにはグローバル化できない、グローバルでないものの価値を自ら認め、主張する必要があります。

それは、その土地土地で独自に育んできたものの価値に気が付いて発信していくということです。インターネットの普及はそういう小さな独自性を認め合うことを後押ししてくれます。世界に向けて「ジャパン」の価値を、都会に向けて「イナカ」の価値を、もっと発信すべきだ。

そんな事にまで思いが伝染した旅でした。

急行・特急では気が付かないローカル線の旅。スローフードだけでなく「スローTRIP」もまた見直してはどうでしょうか。

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しまんとグリーンライン

「宿毛への旅」の続きです。

ここでは、写真を中心に構成してみました。JR予土線。窪川~宇和島までの列車からの景色です。

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窪川駅にて、出発をまつ電車。1両です。夏はトロッコ列車になるようですが…。

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窪川駅をでて暫くのところ。電車が通り過ぎるのを待って保線の仕事にかかる人たち。ご苦労さまです。こういう地道な仕事で鉄道を守ってきたんだ。そういう感慨が湧きます。

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社内の整理券発券機と、料金案内表示パネル。
料金案内表示のパネルは使われていませんでした。その代わりに乗降地点別の料金チャートが社内に掲げてありました。その方が経費がかからなくて済むからなのでしょう。整理券発券機は整理券がちょうどベロ(舌)を付き出すように、ドアがあくとせり出す仕組みになっていました。

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線路脇のちょっと気になる階段です。誰が使うのでしょうか。保線の人?
こういうのを見ると「いつか通ってみたいなぁ」と思ってしまいます。「少年探偵団」って気分です。

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線路脇の階段その2です。今度は下へ下がる階段。さてどこに通じているのでしょう。

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社内の乗客。この時は私を入れて3人。立っている人はビジネスでの利用らしく、途中の駅で降りていきました。

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こういう陸橋にもえらく心をそそられます。農作業用に作られたものでしょうか。こういう橋の上から電車(本当はSLだといいのでしょうが)の写真を撮ってみたいような気がします。

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「はげ」と読むようです。いきなり社内のアナウンスを聞くと「ウっ」と詰まってしまう人も出てきそうです。この他にもオモシロイ駅の名前が結構ある沿線でした。

さて、長くなって来たのでここでちょっと中断。続きは別の記事にします。

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2006年1月22日 (日)

宿毛への旅

1月19日に仕事で高知県の宿毛へ行って来ました。初めて旅するエリアで、いろいろ気付いたことがありました。

出発は愛媛県・松山市。四国外の人には、四国4県の名前は言えてもどの県がどこに位置するか正確に言えない人も多い様なので、まず簡単に解説しておきましょう。

四国は文字通り4つの県で来ていますが、四国を長方形に模式化し、漢字の田の字の様にこの長方形を4分割するならば、下2つのブロックを高知県が、左上のブロックを愛媛県が、右上のブロックを上下に2分割して、上に香川県と下に徳島県というのがごく大雑把な配置関係です。これでいうと今回の旅は、左上の隅から左下の隅へ旅したようなものです。田の字の左の辺を上から下まで下がり、左下隅から、左隅のブロックの周囲を半時計回りになめて(ちょうどアルファベットの小文字のbを描くようにして)、田の字の左上隅にもどったというようなものです。

use
地図は以下より借用し、加工 図の青い線が今回の旅のルートです。
http://www2.wagamachi-guide.com/ehime/edit/top.asp?APP=0

JR(西日本)と、宇和島自動車、土佐くろしお鉄道を乗り継ぐ格好ですが、おあつらえ向きに周遊タイプの
「しまんと宇和海フリーきっぷ|高知~中村・宿毛線~宇和島~松山が乗り降り自由」
http://www.tosakuro.co.jp/tosakuro/ticketfare_05_kurodosas.html
というのがあって、これを全線利用しました。

そこから路線図を拝借すると、以下の様になります。
route

松山から宇和島までは4両編成の特急で1時間ちょっと、宇和島で10分ほどの待ち時間でJRから宇和島バスに乗り継いで 約2時間で宿毛に着きます。

このバスの旅は、センターラインもない山間の細い道を行くのかと勝手に想像していましたが、きれいに舗装された道をスムーズに走行しいささか拍子抜けでした。もう20年ほども前に一度足摺まで車で行ったことがあります。その時にはもう少しひなびた道路だったように思います。交通量は昔の記憶のままでしたが、道路そのもののイメージは今回一新されました。

ただ、道路の回りの様子からは道が整備されてからそれ程の年月が経ってないように見えます。これはどうやらバブル後の公共投資というやつではないかと思い至りました。

主立った産業のない地方にとって、公共投資による道路整備の仕事はやはり貴重な収入源です。税金をこういう形で地方に配分するのは、私はある程度正しいことだと思います。けれど、結局地方の産業は伸びず、公共工事だけに頼っていた地方振興策は行き詰まっています。道路整備の仕事で言えば、さすがにもうこれ以上は整備するところがないだろう(投資しようにも投資する場所が見あたらない)と、道路を見て実感するわけです。

実はバブル後の公共投資で却って問題を膨らました側面があります。従来300人分の仕事であったものが、不況で250人の仕事に減った。しかし、そこへ公共投資による活性化策で400人分の仕事が確保された。けれどそのバラマキには無理があり、前倒しでやった分残っている仕事が少なくなり、結局150人分に減った。つまり、仕事の減少により50人が苦しむ構図だったものが、結局今は250人が苦しんでいる。

地方で確保できる仕事はやはり限られています。あらたな仕事を見つけるのに50人分より250人分の方が遙かに難しいのは誰にでもわかることです。当初のタイミングでの50人分の仕事であれば、じっくりと産業育成に取組むこともできたでしょうが、時を費やした後の250人分の仕事となれば、その確保に猶予がなくなります。問題を本質的に解決するというより、とりあえず仕事の数を確保することが優先されがちです。その結果一時しのぎにまた余分なエネルギーがついやされ、カンフル剤が切れたときには問題はさらに大きくなる…。そういう悪循環が起こり勝ちです。

今になって思えば、カンフル剤的な公共投資ではなく、地方に豊富な農林水産資源を活かすように本質的なインフラ整備をしておけばよかったのでしょう。

どういうインフラ整備をすべきだったかはまた別の機会にゆずりますが、例えば、農業ならば田畑の大規模化あるいは、農業の自動化、共同経営などによる合理化。林業ならば木の切り出しや枝打ちの機械化や木の運搬経路の整備。漁業でいえば育成漁業であり、漁業資源の確認やそのなりたちの研究などが考えられるでしょう。

さて実は、この記事は今回の旅の沿線の風景から感じたことを紹介したいとおもって始めたのですが、少し長くなってきましたので、一旦ここで終えることにします。写真を中心にしたセッションが次回の記事になります。

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2006年1月11日 (水)

自分がコワイ

先日恐れていた事がついに発生しました。

ヤカンをコンロにかけたまま気がつかず2時間。うち1時間半は外出していました。実は家を出る前にも何かが焦げてるような臭いには気がついていて、どこかでたき火でもしていないかと家の外に出て見回した位ですが、自分のしでかしている事には気がつきませんでした。

外出先から帰宅してもしばらく気がつかず、家内が米国から買ってきていた煙感知器がピッ、しばらくしてまたピッと音を立て始め、それでも空だきには気がつかずに、もしかして感知器の電池残量が少なくなった(こういう現象が発生します)かな位に思っていましたが、感知器をチェックしに行ってやっと気がつきました。

さすがに気がついた時にはぞっとしました。よく火事にならなかったものでした。外出していただけに火事になる危険性は大でした。

実はこれまでにも空だきは何度もやってしまい、それなりの対策もしていたのですが、でも折々に空だきをしてしまうのです。笛付きのヤカンを利用していた時もありました。これも蓋(笛の部分ではなく)をきちんとしてなくて、そこから蒸気がもれ、笛が鳴らずに空だきというケースがありました。

また、ヤカンに火をかけると必ず3分タイマーを掛けるようにしていますが、ふとした弾みでタイマーを掛け忘れ、その都度空だき独特の臭いでやっと気がつくのです。

今回は思い起こせば、ヤカンをコンロに掛けた時にかかってきた電話で、ヤカンをかけていることを忘れたのでした。普段、時々は出かけた後でも胸騒ぎがして、コンロを見に帰ったりしていたのですが、今回はまったく失念していたのです。

kettle 左が空だきしたヤカン(底の部分が変色)
蓋の部分のツマミ下の円形のプラスチックも割れて
外れてしまっています。

-クリックで拡大-

さすがにこれだけ長い間の空だき、しかも外出していたとなると、いつもに増して冷や汗ものですが、逆にちょっと安心できる事実にも気がつきました。

それは、ヤカンの空だきでは2時間くらいは火事にならなくて済むということです。ヤカンの底は真っ赤ですし、コンロにも熱がこもっているし非常にコワイ状態ですが、コンロから与えられている熱はヤカンを熔かしもせず、蓋のツマミのプラスチックが燃えることもなく、ヤカンから大気中に放散されて熱平衡状態になるのです。

これは一つの発見でした。

無論、空だきはいつ何時火災を誘発するかわからず、特に近くに可燃物があったりすると危ないし、水だけを加熱するならともかく、鍋でこれをやると間違いなくアウトなので(幸い今まではヤカンだけです)コワイことに間違いはありません。けれど、やはりヤカンの空だきにちょっと「猶予」があるのは、少しばかり心やすらかな感じがします。

けれど、けれど、ああもう二度と空だきをしないで済むようにしたいものです。

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2006年1月 8日 (日)

しめ飾り

玄関先にあったしめ飾りを先ほど外しました。

昔なら、私の住んでいる地方ならば「どんど焼き」と呼ばれる行事があって、皆が持ち寄ったしめ飾りを燃やしたものですが、最近はそんなことをしているところも見かけなくなりました。また、ダイオキシン問題がでてこのかた、市では野焼きを禁止していますので自分でしめ飾りを燃やすことにもなんだか抵抗があります。

ということで、敢えなくゴミ箱行きとなってしまうわけですが、この間まで晴れがましい気分で飾っていたものを用が無くなったからといって「ゴミ」扱いするのは日本人の心情としては割り切れないものがあります。そもそも「どんど焼き」そのものはそういう心情から自然発生的に起こったことではないかとも思うのです。

でももしかするとこう、こういう感傷は若い人には無いのでしょうか。そもそもしめ飾りなんぞには興味がないと言われればそれまでですが…。

伝統を大事にする気持ちと同時に、こういう「晴れがましさ」を大切にする風習が失われた、あるいは失われつつあることと昨今の殺伐とした事件(若い塾講師による教え子の殺害)とには何か繋がりがあるような気がしてなりません。

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2005年12月19日 (月)

継続は力なり

「継続は力なり」とはよく言ったものです。
最近、あれこれバタバタしている割に成果の出ないのは
成果が出るまで継続するということができてないからではないか。
そう思い始めました。
思ったけれども、なかなか身に付けられないでいる自分がいて
少し困惑しています。

しかし、よく考えてみると昔から勉強は一夜漬けタイプ。
決まった日課を持つのは苦手でした。

自営業となってみると、一日をどう過ごすかは自分次第。
家で仕事しているとなかなかリズムがつかめません。

「毎朝5時には起きて、7時には会社に…」
こういうことは、聞くとあまりたいしたことが無いように思いますが
なかなかどうして難しいものです。

こう考えてくると、
普通の人間にとっては「フレックスタイム」 のようなものよりは
定時出社のルールの方が遙かに効果的ではないでしょうか。

その方が一定のリズムが継続しやすいと思います。
仕事のリズムも一定になり。「継続は力なり」と実現しやすいのではないでしょうか。

話変わって、
日本の文化は伝統的には「規律」を重んじる社会であったように思います。
戦争の原因がこの「規律」の行き過ぎと認識されたのかどうか
戦後は自由放任の度合いが段々と大きくなってきているようです。

「継続は力なり」ということの効用は
スポーツの世界を始めとして感じることが多いのですが、
実はそこに「規律」は大きな力を発揮しそうに思います。

日本の経済が発展してきたのは案外そういうところ、つまり
「規律を重んじる社会風土」、にあったのかもしれません。
規律の行き過ぎは重苦しさを生みますのでこれも歓迎できませんが
今の日本は少し規律を失いつつあるようにみえてなりません。

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2005年6月30日 (木)

店じまい

近所のコンビニが昨日で店じまいした。

1週間ほど前に店にビール(いわゆる第3のビール)を買いにいったらえらく品数が少なくなっていて、おかしいなと思っているとレジの所に、29日16時で閉店しますと貼紙がしてあった。

28日の夜11時過ぎに店にいってみると、雑誌や本の棚は空になっており、ビールも空きが目立つ。お弁当や、食品はまだあまり減ってなかった。

このコンビニは歩いて2分ほどのところにあり、深夜に思いついてビールを買ったりオツマミを買ったり、あるいは遠出などの時にサンドイッチを買ったりと重宝していたのだが不便になりそうだ。

実は、その隣に昔から有る「ナイトショップ」が残っているのであり、大手チェーンではないにせよほぼコンビニのような品揃えがしてある。今回閉店したコンビニが何年か前に開店していらい以来客足が減っていたが、深夜にいくとレジに誰もおらず不審におもってバックヤードを覗くとそこで店主(の一族)とおぼしき人が居眠りをしていたりということがあった。

おかしなもので、隣にも店があったのをすっかりわすれて「不便になる」などとおもっている。

閉店したコンビニには結構客が入っていて閉店の必要があったようにはおもえない。実は、この店の前の道路はバイパス開通以来通る車の数が減っていたのだけれど、この7月1日に1キロほど南へ行ったバイパス分岐の手前の幹線道路で同系列のコンビニが開店する。

閉店した店の店主が店の位置を移動したのではないかと見ているのだが、明日さっそく新しい店に行ってみようかと思っている。

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2005年6月20日 (月)

絵の味

絵は、肖像画の様に「売るため」のものとして描かれたものは無論あるが、概ね画家が「好きなように」描いた物である。

そこではあまり「人」は意識されていない。ビジネスで言えば「カスタマー」は意識されていない(意識のしようもないというのも事実だろう)。ひたすら自分の内面との対峙である。いわば「自分勝手」の結実したものだ。

では、そんなものを何故人が気に入るのか。欲しいと思うのか。

我々にはある造形や色に惹かれる気持ちが組み込まれている。画家の心の中にも無論それはあり、画家はそれを見つめて絵にして我々に提示する。つまり我々が惹かれるものを少し精製して見せてくれる。花から抽出した香水によって初めて「イイ匂い」と気が付くようなものかもしれない。

ただ、絵の場合には抽出技法は確立してないので、不純物も沢山混じる。不純物も濃縮される。だから好き嫌いがハッキリと出る。

絵の鑑賞にはいろいろな理屈がついて回るが、結局のところ「人に気に入られる成分」の抽出精製にうまく成功したものがいい絵なのだと思う。絵描きは絵が好きで好きでたまらない。絵に関する「嗜好」のセンサーの感度が良いのである。

新しい絵の評価に時間がかかるのは、一緒に精製された「不純物」に鼻が慣れ、味だけに集中できるようになるまで時間がかかるからである。珍味の類にはよくあることだ。絵も「嗜好品」なのである。絵を味わう「味覚」は自分で磨かないと良くなってこない。

安いワインにもウマイものがあるが、評判や、ブランドや値段にジャマをされず素直に味で判断できる人は少ない。その気になればそれ程難しいことではないにもかかわらずである。

これ以外にも、我々は自分に自然に備わっている色々な「人生の味覚」を随分だめにしている。もったいないことだ。

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